心の中に、おさまりのいいソファのような場所がある。

心の中に、とてもおさまりのいい、ふっかふかのソファのような場所がある。おそらくそれは、私が生まれてこのかたずっと同じ場所にあるのだけれど、その存在を知ったのは精神世界に興味を持ってからだし、たどりつけるようになったのは瞑想をするようになってから。ほんのつい最近だ。

ある人はそれを「今ここ」と呼ぶかもしれないし、またある人は「ゼロポイント」と呼ぶかもしれない。もしかすると仏教でいうところの「空」とはここのことではないかと思うこともある。そのソファに腰を落ち着けていると、不安やかなしみ、怒りはもちろんのこと、楽しさや喜びも色を無くしていく。日常の慌ただしさと自分との間に薄いベールが降りて、ただただ穏やかな瞬間が続く。

ずっとそこにいられればいいのだけれど、ふいに過去の嫌な記憶が甦ったり、洗濯物を干さなければと思い出したり、猫がみゃあとごはんの催促に来たりと、内外からの刺激で気持ちのバランスが崩れた瞬間ソファはたちまち消えてしまう。ソファに出会うことも至難の技で、家にいる間は瞑想中にしか見つけられない上に、瞑想したからといってたどりつけるとも限らない。いつでも好きなときに、好きなだけソファに座れるようにいつかはなりたい、と思っている。


国東の山々を歩いていると、不思議なことに、突然心のど真ん中にソファが現れることがある。そんなときは、その場で目を閉じてソファに座ることにしている。

普段は回っている独楽を見守るような、いつまでこのバランスを保てるかという意識がどこかにあるのだけれど、山の中で出会うソファはなぜかとても安定感があり、時間の波間をただぼんやりと漂っているような感覚におちいる。鳥のさえずりや木々のざわめきが聞こえても、まったく揺らがない。あまりに心地良くて、同行の写真家・高崎恵氏が声をかけてくれなければ、そのまま戻ってこられないのではないのかとも思う。

岩陰や木の根もとでぼーっとしている私を見て、高崎氏は「今、自然と一体化してたよ」と言う。自分の感覚としては内側に向かっているのに、外側と調和しているように見えるのは不思議だなと思う。


そのような話を高崎氏としていたところ、彼は写真を通じて同じところに向かっているのだとわかった。

高崎氏からこれまでに聞いたことを私なりにまとめると、写真というのは主観的で、何を撮りたいのか、どう見せたいのかといった撮影者の意図をそのまま反映する媒体である。カメラを構えてシャッターを切る存在がある時点で絶対に何かしらの意思が介在してしまうのだけれども、高崎氏のめざすところはいかに自分という存在を透明に近づけるかという点にあるらしい。

自我の色をできる限り薄めて、シャッターを切る。そうして撮った写真が納得いくものであったときに、世界が調和していること、自分がその調和の一部であることを感じることができる。それが彼を撮影に駆り立てる動機であり、その一体感を求めて写真を撮り続けているのだという。そして、国東ではその一体感を得られやすいのだと。


私も彼も、今のところ、自分の外側に求めることでしか心の平穏を得られない。けれど、その静けさは本来個々の内側にもあるもので、今はただ遠ざかってしまっているだけなのだと思っている。

穏やかな調和を自らのうちに保つこと。今はまだ何のあてもないけれど、あるべき場所に少しずつでも近づけるような気がして、国東の山を歩いている。