世界は名前でできている。

大分県国東市の黒津崎海岸には「おしり岩」と呼ばれる岩がある。

B級観光スポットと聞いていたのでまったく期待していなかったが、実際に足を運んでみるとかなり大きい。山中にあれば目立たないのかもしれないけれど、まわりは砂浜だ。離れたところからでも目を引く。まるで手術痕のような有機的な模様が一層「ただのおしりではない」感を醸し出している。

近づくと、その大きさに改めて「すごい」と思う。そして同時に「おしりのくせに」とも思う。(そして、自分がおしりに対して偏見を持っていることに気づく。)


名前がなければ、きっと素直に「かっこいい岩」だと感じただろう。もしかしたら、「ある角度から見るとちょっとおしりっぽく見える」とは思ったかもしれない。それでも、「かっこいい(けれど、一定の角度からはおしりのようにも見える)岩」として眺めることができたはずだ。

「おしり岩」という名前があるがために、私は「おしり」というフィルターを通してしか岩を見ることができない。まるで呪いのようだなとも思う。しかし一方では「おしり岩」でなければその存在を知ることも、わざわざ見に行くこともなかっただろうし、もし見かけたとしてもこんなに語るほど記憶に染み込まなかっただろう。

名前がついているからこそ、看板がたち、B級スポットとして人々が訪れ、こうして語り継がれていく。


名前がなければ何事も存在し得ない、という考え方がある。

「青」という言葉しか持たなければ、スカイブルーもマリンブルーも同じ「青」だ。「雪」という言葉しか持たなければ、息を吹いたらふわっと舞い上がるような「粉雪」も、ぎっしりと大粒でまたたく間に降り積もってしまう「ぼたん雪」も、等しく空から落ちてくる氷の結晶でしかない。

霊場も同じなのではないだろうか。霊場と呼ばれ名前がつくことで、同じ山中にあって他とは違う特別な場所として認識される。


六郷山の第一番霊場である後山金剛寺を調べ、おおよそのあたりをつけて現地に旧金剛寺(現在は後山岩屋)を探しに行った。かつては磐座だったのではないかと思うようないい雰囲気の巨石が点々とあり、ただそこにいるだけで気力が満たされる空間だった。山頂まで歩き回ってだいぶ探したものの、それらしき岩屋は見つからず、「残念だったね」と言いながらその日は探索を終えた。

後日、図書館で資料を読み漁っていたところ、金剛寺の具体的な場所が記された地図と境内の見取り図を見つけた。なんと、前回登った場所の隣の山中だった。そもそも見つかるはずがなかったのだ。

読み違えた。くやしい。

そう思って高崎氏に連絡をすると、「わかる前に迷って得したね」と返ってきた。

たしかに、イヤシロチと呼びたくなるような、とても居心地のいい場所だった。しかも、最初から正確な場所を知っていたら絶対にたどり着くことはなかった。霊場の名があることで、正解を探してしまっていた自分に気がついた。


場所の名前どころか、山の名前もないけれど、その「なんだかいい感じの場所」はこの世界にたしかに存在している。